K. T.
2011年3月11日、信じられない光景が目前に広がりました。地震の揺れのみならず津波が会社に押し寄せてきたのです。
午後2時46分、長時間続く大きな横揺れに膝がガクガクと震えました。揺れが続く中、物が倒れないように必死で押さえ、早く治まらないかと願うばかりでした。そんな状況でも、実家の両親や夫の安否がとても気がかりでした。幸いなことに、地震後にメールが通じて無事が確認できました。
余震が続く中、地震で倒れたものの片づけをしようとしましたが、何から手をつけていいのかわからない状況で、いざ片づけようとするとまた大きな余震がくるという繰り返しでした。
余震に怯え、何もできない時間がすぎ、社長から「おそらく津波がこの会社にもくるだろう」という話があり、全員2階に待機ということになりました。私はまさかこの場所まで津波が押し寄せることなんてない、仮に津波がきてもそんなに高さはないのではと思っていました。あの大きな地震からどれくらいの時間が経過したのか定かではありませんが、窓から見える三井アウトレットモールの駐車場あたりにジワジワと動く黒いものが見えました。それが津波だと認識できるまで、ちょっとの時間が必要でした。自分の目を疑いましたが、津波だと分かった瞬間「津波がきた」と大きな声を出していました。
津波は、駐車場にあった従業員の車を簡単に流し、さらにはバリバリと大きな音を響かせながら会社の1階を通りぬけました。何が起きているか、現実のことなのか、あまりにも日常とかけ離れた光景に茫然とするしかありませんでした。道路の水は全く引く気配もなく、自宅に帰ることは不可能な状態でした。雪が降り出し、冷え込みも厳しくなる中、そのまま会社の2階で一晩過ごしました。停電で、辺りは真っ暗でヘリコプターの音だけが暗闇に響いていました。一晩中余震の恐怖と寒さに耐え、翌朝窓の外を見るといつもの日々からは想像できない光景が広がっていました。時間ともに少しずつ水が引き、会社から脱出できて自宅に戻れたのは12日の昼過ぎでした。
自宅も相当な被害があるのではと覚悟していましたが、夫の話では倒れていたのが食器棚くらいで、後は配置がずれていたりしていただけだったということでした。もちろん食器の8割が割れて散乱していたのですが、私が帰った時には夫が片づけた後でした。
津波の後、夫と電話が通じたのは11日19時頃の1回だけでした。仙台の中心部に職場がある夫は、停電とともに一切の情報がなく、津波が到来している事実をその時まで知らなかったのです。そのため、連絡が取れて「津波で帰宅できない」、「車も流された」ということを伝えても「ウソだろ?」としか言いませんでした。事実、私自身も本当に津波が来るまでは数センチくらいだと思っていたし、信じられないのも仕方がないことだと思いました。
地震の後すぐに連絡が取れた両親でしたが、津波の後はしばらく連絡が取れませんでした。私の実家は石巻で、安否確認のために実家に行きたくても手段もないし、道路だってどうなっているのか何の情報もなく、心配だけが募りました。実家は、海から離れていますが、会社にまで津波が来たことを考えると、恐らく水は上がったのではないか、両親は逃げ切れただろうか、もしダメだったらどうしようとたくさんのことを考えてしまいました。
3月14日、父からメールが届きました。母も無事という内容でした。嬉しさと安堵で涙が出ました。しかし、電波状況が不安定なため、こちらからの返信は届かないようでこちらの無事を伝えることはできませんでした。その後、19日から石巻行きの臨時バスが仙台から出るということがわかり、夫に無理をお願いして一緒に石巻まで行ってもらいました。食料と水を持って行ったので荷物は重く、その上バス停から実家までの距離を長時間歩く考えだったので夫には大変感謝しています。
石巻市は私が育った石巻市ではありませんでした。実家の近くまで行くと、いつも見慣れていた田んぼが車やゴミで汚れており、道路にもたくさん車が転がっていました。砂埃が舞い、空はかすみ、実家まで行く道路の一つが寸断されていました。他県の機動隊が遺体の捜索に来ていて物々しい雰囲気で、知らない場所に来ているようでした。
14日以降連絡が全く取れなかったので、バスを利用して石巻に行くことは両親には伝えていませんでした。実家につくと、庭に両親がいたので「お母さん!」と声をかけると母はびっくりした顔でそして少しやつれた様子でしたが、涙を流して迎えてくれました。既に家の片づけは、進んでいるようでしたがまだ汚泥が残っていました。それから、毎週土曜日に夫と二人で食料を持って、片づけの手伝いに行きました。その度に、石巻の被害の大きさをそして復旧作業が遅れていることを実感しました。仙台は、沿岸部を除けば、震災後早いうちに普通の生活に戻りつつありましたが、石巻は元の生活に戻るのにまだまだかかりそうでした。
会社の片づけは、3月13日から始まりましたが、何から片づければいいのかわからないくらいすごい状態でした。汚泥は日に日に臭さを増し、泥だしをしてもなかなかきれいにはなりませんでした。機器類も海水に浸り、使えなくなったものがたくさんありました。ドアのガラスや壁も崩れ、改めて津波の恐ろしさを実感しました。社長の指示のもと、少しずつ片づけを進めていきました。社長の自宅も被害がひどく大変なのに、職員の為に会社の再建をしていただきました。私の実家のことまでも心配していただいて、大変ありがたく思っています。
この震災で、私はたくさんの人に支えられているなと思いました。夫の実家からは、車を1台借りることができたし、群馬にいる姉は実家の分も含めたくさんの支援物資を送ってくれました。また、夫の友人もガソリン不足で石巻にも行けないだろうからとガソリンを持ってきてくれました。実家から仙台行きの臨時バス乗り場まで歩いている途中も見ず知らずの人が車に乗せてくれました。本当に感謝の気持ちでいっぱいでした。
夫には特に感謝しています。震災後、私は何をする気にもなれず、必要なものの確保や食料調達などは夫が行ってくれていました。実家の片付けも嫌な顔ひとつせず動いてくれましたし、親戚のことも色々と考えくれて、引っ越しの手伝いもしてくれました。
この東日本大震災を経験して、普通の生活を送れることがすごく贅沢で幸せなことなのだと思いました。二週間以上もお風呂に入れなかったことなんて初めてで、入れた時の感動は今も忘れません。全国から復旧作業のために応援にきていただいて、きっと皆が感謝の気持ちでいっぱいだと思います。
東日本大震災から2カ月以上経った今も、避難所生活をしている人もいるし、ライフラインが復旧していない地域もまだあります。地震だけだったら、津波さえ来なければと今でも考えてしまいます。しかし、津波を目の当たりにしたことは、貴重な経験だと思います。この恐ろしさを津波のことを知らない方々に伝えていくことも重要なことだと思います。3月11日からもう少しで3カ月になります。まだ、大きな地震が来る可能性もあり安心できない毎日です。この震災を経験したこと、そして多くの方々の支えがあったことを忘れず、助け合いや思いやりの気持ちをずっと持ち続けていけたらいいなあと思います。
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