震災ブログ
(1)東日本大震災
04.19
3月11日に発生したマグニチュード9.0の大地震は2、3分の長い横揺れと縦揺れ。かつての宮城沖地震を経験している私はとっさに館内放送で職員に安全を促す放送をした。しかし間もなくその声も停電で消えてしまう。 立つこともできない。全くなす術もなかった。
漸く地震が治まった後、職員を外に避難させた。その間も大きな余震が幾度となく襲来する。被害状況を確認する・・2階にある6台の細胞培養装置、タンパク質超遠心機1台、Lumiimagerシステム、アレイスキャナーシステムなどの機器は耐震設置してあったが鉄骨の柱から剥ぎ取られる状態で分析機器が床に激しく転倒し無残な状態となっていた。 一階の科学機器は全て無事だった。あれがくるまでは・・・。
地震発生後にサイレンが鳴り響いている。これまでと違う・・それも尋常ではない。当社は大津波避難場所と10mしか離れていない場所。大津波がきても安全と思っていた。
職員全員を2階に避難させてから10分後2階から、仙台港のフェリー乗り場方向からと思う波が夢メッセの建物や変電所の隙間から見え、仙台港アウトレットに駐車している100台以上の車を次々と押し流し、さらに45号線バイパスで大渋滞中の車を大波が押し流していく。津波だ!逃げろ!と叫んでも届かないもどかしさ。逃げ遅れて泳いでいる人達。人が車に取り残されて沈んでいく。阿修羅のような光景だ。胸が苦しくなってこれ以上見ていられない。
そう思って眼下を見ると黙々と工事をしている2人がいた。逃げろという声も届かない。圧搾機の音で遮られている。このままでは…急いで階段を降り、会社の前の工事現場まで走って目の前に迫る津波を教える! やっと慌てて逃げてくれた。(後に命の恩人と感謝され、震災復旧で大変お世話になった。上田孫治さんらにこちらこそ感謝だ。) 数秒後に研究所を津波が押し寄せた。あっという間に職員の車全てを押し流していく。 夕刻を刻み始めたとき、アウトレット駐車場に残骸となった車が突然炎上し、次々と炎上していく。暗闇に真っ赤な炎。その後直ぐに仙台港の石油基地の辺りから爆発音と同時に火柱が高くあがった。3月11日の夜は寒かった。寒さで震えながらほとんど一睡もできずに朝方を迎えた。
まだ浸水していた1階を覗いた。声が出なかった。 1階の壁という壁、ドアというドアは完全に破壊され什器や設備の全てが押し流され全て泥の海水に浸っていた。
つづく

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(2)復旧へ向けて
04.26
(研究所に押寄せた津波で車が流れてきた)
震災後・・いろいろな事がありすぎた。震災から2週間までの曜日と日時が中々思い出せない。きっと・・頭がオーバーヒートしていたんだろうと自己分析する。
職員の協力なしには復旧という文字はなかったと思います。泥まみれの什器、書類、実験台などの洗浄。がれきの撤去、掃除を毎日毎日繰り返す(結局3週間続いた。。疲れました!)。

(なす術がないほどの状態)

(津波のあと・・遠くにあちこち煙が!)

車が流されたため10kmの距離を徒歩で通う職員!またある者は自転車を購入して20km以上の距離を通う。私が会社で寝泊まりしているのでおにぎりを差し入れてくれたり、靴下、防寒ジャケット、毛布・寝具まで持参してくれた。(何故?会社で寝泊まりしてたのかって? 実は自宅も大規模損壊なので帰れない! もう一つは窃盗犯グループがたくさんいて防衛してました!) 休業状態なのに毎日集まってくる職員の顔は良いものですね! 今も一緒に頑張っている職員が私の背中を押してくれたんだと思います。復旧へ向けての第一歩は私より職員が先だと思います。 会社はボート・・みんな乗組員(クルー)。震災後7日目にそれを見た気がしました。翌日、私はライフラインのあるマンションに災害復旧本部を立ち上げ、管理部門を移設しました。ここからが怒涛の速さで復旧の道を進みます。


つづく

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(3)復旧
05.06
外見上、社屋は大規模損壊を予想できないぐらい見た目は全く大丈夫だった。しかし屋内はひどかった。

(津波で壁が損壊されたクリーンルーム)

(機械がヘドロでべったり)

(職員の車が押し流されて裏の道路に!)

(愛車のZが下敷きに!!)

電気、電話、建物の復旧にどれくらいの日数を要するか?すべてのkeyワードが「復旧まで何日か」であった。
震災後15日目に社屋施工会社からの回答は電気は一カ月以上・・  電話やFAXは見通しが立たない、建物は部材が手に入らないのことと、大工、電気、水道工事の職人さんを確保できないので1カ月以上との返事だった。
この時点で㈱江東微生物研究所様からの御厚意により検査スペースを開放していただき間借りすることができた。これで「検査事業」は何とか仮営業することに目途ができた。改めて㈱江東微生物研究所様の御恩を忘れることができない。
一方、合成事業やアプリケーション事業は依然として目途がたたない。
社屋移転先を探すしかない。移転先の物件を決めたのは震災後20日後であった。突貫工事で4月18日に仮営業できたのは運が良かったと思う。
移転後・・ やっと落ち着いてTVのニュースを見ることができた。津波の映像が流れる度に胸が重くなる。がれき処理をしている時はヘドロを取り除いたり・・移転までの間は本当に無我夢中だった。
そんな折、竹内先生の奥様から手紙が届いた。心配している内容だった。直ぐに電話をかけた。話をしているうち、ふっと故・竹内拓司先生(東北大学理学部名誉教授が当社の初代研究所長であり、私の恩師でもある)の写真のガラスが割れ無残!思い出の品々も流失したことを伝えた。何故か直ぐに溢れ出てくるものを必死に堪えている自分があった。今日もまた奥様からの手紙が届いた。温かい励ましとお見舞いの言葉があちこち・・・・・ うれしかった。

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(4)被災の現状
05.09
(研究所の職員が写した動画)
2011年03月11日 16時02分 撮影
職員の家族の訃報があった。実兄の奥さんと子供の二人が行方不明だったが1週間過ぎて遺体で発見された。子供をおぶった状態で発見されたとのこと。ショックは計り知れない..
1週間後葬儀を済ませて会社に戻ってきた。とっさに強く抱きしめた。。がんばろうね!みんなでがんばろうね!涙と嗚咽で肩を震わせているのが身体にしっかりと感じた。   石巻市、女川町に住む職員の両親の実家が津波で全壊、大規模半壊もあった。
震災から3週間後に多賀城市にある自宅を見た。 家の中にはドラム缶から60kgボンベから危険なものがたくさんあった。ボランテイアの方々の泥の撤去のおかげで中に入れた。(ボランテイアの方々に感謝だ!)石油基地からほど遠くない距離..  今でも重油の匂いが家中に立ち込めている。手の施しようがないのでそのままの状態だ。
大震災から2カ月になろうとしているが破壊された自動車の山・がれきの山・泥の山がまだまだ多い.. 信号機も点灯していない個所も多い。警視庁・神奈川県警・滋賀県警などたくさんの県警のパトカーが行き来する。また信号機では警察官が手旗信号で交通整理をしている。多くの方の支援を目にする。
余りニュースにならないが、七ヶ浜町の漁港は壊滅していた。
海にトラックが沈んでいるのがたくさん見える。陸上では自衛隊の方々が捜索中である。時折、遺体も発見される。
目にする度に合掌する。多賀城市もひどい、仙台新港は爆心地のような有様だ.. たくさんの会社があった。工場もあった。たくさんの新車が運び込まれる状態で待っていたハズ..
それがメチャクチャになっている.. 大きな船が岸壁に乗り上げている。TVで見るのと大違いの現状。GWも終えたが被災地・被災者にとって復旧はまだまだだと思う。
つづく

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(5)5月15日に見た七ヶ浜
05.16
多賀城市の隣の町である七ヶ浜町は夏は海水浴で賑わう菖蒲田海水浴場があり、釣り師にとって良い釣り座も多い。 津波の引きでタンクローリー車やコンテナが多数沈んでいる。 砂浜も80%以上がなくなっている。今年の夏は海水浴はできないだろう。 昨年の夏、菖蒲田漁港で40cmオーバーのクロダイを釣りあげた。懐かしい風景はもうない。
七ヶ浜 5/15 1 砂浜がない菖蒲田海水浴場
七ヶ浜 5/15 2 海水浴場の反対側(瓦礫も片づけられていない)
海中に沈んだ車の撤去や瓦礫の処理がまだまだ手つかずである。
七ヶ浜の入り口にあるのが松が浜漁港である。 小さな漁港だが外洋側ではうき釣りでクロダイ、ぶっこみ仕掛けでアイナメのビッグサイズが釣れる良いポイントだ。
七ヶ浜 5/15 3
また、松が浜漁港手前には新仙台火力発電所があり、東京ドーム6個分? ぐらいの広さの自然公園がある。 そこに数千台以上の被災車が置かれている。
七ヶ浜 5/15 4
それを過ぎてさらに進むとトンネルだ。そこを抜けると松が浜漁港だ。
七ヶ浜 5/15 5
山が崩れてぽっかりと空いている。
七ヶ浜 5/15 6
防波堤に船が乗っかっている
大きな津波で山を飲み込み真ん中がぽっかりと空いている様、地盤沈下も激しい。 岸壁から海水が溢れそうだ。真冬はチカ釣りが楽しい釣り場。。もう釣れないだろうと思った。。 ふと海面を見るとボラの子供が泳いでいた。。大きくなってまた会いたいものだ。
七ヶ浜 5/15 7
クレーン車が見えた。何をしているんだろう。近づくと船を上げているようだ。
七ヶ浜 5/15 8
救いは・・漁師さんたちがくったくのない笑いで船を引き揚げていた姿だ。
漁の再開を目指している雰囲気を強く感じた。
つづく

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(6)小さな命
05.17
私の妻は多賀城動物病院の獣医さんだ。妻が経営する病院も津波で被災した。自宅も大規模半壊だった。重油が混じった津波で自宅は匂いもひどくて住める状態ではない。 病院は診療できないが.. 診療開始を願う飼い主さんの泥出し、片づけが行われたそうです。休業の張り紙をしても次から次へと患者さんがやってくる。 また被災ペットが持ち込まれたり、避難所(避難所にはおいておけない)や被災地(飼い主が亡くなったり)で発見されるペット達..
5月現在.. あまりにも多すぎて病院の2階だけではペットの収容には限界!! 結局・・自宅の2階はペットの避難所と化していた。
実は今だから話せるが・・あの大震災から5日間、妻の安否がわからず、行方不明だった.. あちこち探したが見つからなかった。あきらめかけていた時、妻が元気で避難所にいることを息子から聞いた。
5日間も行方不明だった理由は後日わかったことだが。妻はあちこちの避難所や被災地を駆け巡ってペットの診療ボランテイアをしていたそうだ。 今もボランテイアを続けている!(そんな事をしていたなら見つかるはずがない! 兎に角・・ 連絡してよ!!と心底思った。) 妻が言うには・・ 私はサバイバルに強いので必ず生きていると確信していたとのこと。連絡せずとも大丈夫と自信たっぷりに話す妻。。(本当かな?)
 
そんな私の家族もやっと5月1日からマンション(幸運にも借りることができた!)で少しずつだが家族3人の生活が始まりました。
マンション暮らしを始めてGW中のある日・・ 段ボール箱をマンションに持ってきた。見てみる??という妻。。なんと中には10cmにも満たない猫の赤ちゃんが3匹!  津波で流された家の中から猫の赤ちゃんを見つけたそうだ。
親は餓死したようで。赤ちゃんはとても衰弱して生きられるかわからなかった。
マンションで2週間以上集中治療!!その効果なのか・・ やっと手の平サイズまで元気になった。 猿のような顔をしているので「モンキー」と呼んでいる。 もう一匹はチャップリンのヒゲと同じ模様でチャップリンにそっくりなので「チャップリン」。 もう一匹は大人しく、鳴き声も静かなので「しずか」と呼んでいる。 ただいま里親を探している。
 


つづく

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(7)南三陸町
05.23
南三陸町(旧志津川町)に管理釣り場で有名な志津川フィッシングパークがある。パークへはクロダイの本格シーズンが始まる春や落ちに入った後の秋に年に2-3回ほど訪れる所だ。春には釣りの仕掛けの確認のため。秋には釣り方の反省を兼ねている。マダイ、クロソイ、ヒラメ、マス、ギンザケ、カレイ、アイナメ、イナダ、サバなどが良く釣れる。管理釣り場なので当然ながらイナダ系は直ぐに釣れる。そんな中から目的のタイ、クロソイをゲットしたときは引きの強さを十分に堪能できる至高の一時だ。
そんな思い出が吹っ飛んでしまう今回の津波。南三陸町の震災ニュースは良く映像でも流れるが私が知る町の面影は全く何もない。当然ながら志津川フィッシングパークもない。そんな中、小雨混じりの日曜日に行ってみた。偶然・・志津川フィッシングパークの社長が生きて居られるのを見つけた。「もう一回がんばってみっか・・」悩み続けておられたのだろう。言葉には力がない。だが「はっきりと志津川は負けない!がんばるぞ!という言葉には力強さを感じた。 是非。。復興して釣り人を楽しませてほしい。


つづく

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